トレンドがわかる、買える!大人のためのコマースメディア
トレンドがわかる、買える!大人のためのコマースメディア

夏の黄昏と蝉の声。小島慶子

夏の散歩は日が傾いてから。

夕凪の街は、昼間のうだるような暑さの余韻に満ちていて、歩き始めてすぐに汗が滲みます。

降り注ぐセミの大合唱の向こうから、わずかに風が吹き始める瞬間が好きです。

夏の黄昏と蝉の声。小島慶子
白い百日紅の前で。

この坂の向こうはどうなっているのだろう?

そこを曲がったらどこに出るのかな?とワクワクしながら街を巡るうちに、あたりは少しずつ暗くなり、ぬるい夜風が体を包んで、あちこちの部屋の明かりが輝き始めます。

あの窓にも、この窓にも誰かの暮らしがある。

しばし住人になったつもりで、いろんな日常を想像します。

新しい超高級マンションはそう簡単に部屋の中までは見えないけれど、通りから見上げた天井に輝く美しい照明や窓辺にのぞくカーテンの生地から、広い広いリビングでの家族の団欒が思い浮かびます。

そのちょっと先には40年くらい前に建てられた古いマンションがひっそり佇んでいて、小さな窓から蛍光灯の白い灯が漏れ、壁にかけたカレンダーが見えます。

ずっとここに住んでいる老夫婦かな。

40年前は意気揚々とみんなの憧れのマンションに入居して、時代の最先端を行っていたんだろうな。

今日もいろんな人生に同じ黄昏が降りてきて、夜が静かに始まります。

ビルの谷間の小道を歩くと、大富豪も老夫婦も、どちらも街の明かりの一つでしかないのだよなあとなんだかしみじみするのです。

夏の黄昏と蝉の声。小島慶子
満月と一番星。

幼い頃から、街を歩き回るのが好きでした。

お気に入りの家を見つけては、そこでの暮らしを夢想したものです。

大人になった今も、それは変わりません。

あの部屋で暮らす人生も、あり得たのだろうか。ここで静かに年を重ねていく暮らしはどんな感じだろう・・・せっかくもらった命なのに、一つの人生しか生きられないのがもどかしい。

この夏48歳になって、よく終わりのことを考えるようになりました。

気が早いと言われるかもしれないけど、自分の終わりがいつかなんて、誰も知らないのだし。

あとどれくらいいられるかもわからないこの世の景色を見ておきたいと思うと、見知らぬ人の暮らしも全部、懐かしく感じられるのです。

48年を振り返ると、そうかあ、これが私の人生だったのか、とちょっと残念にも思います。

もっといろんな経験をしてみたかったけどなあ。

まあ、体は一つで時間は一日24時間しかないのだから仕方ないか。

いろいろあったけどよくがんばったよ慶子、などと歩きながら独り言がこぼれます。

夏の黄昏と蝉の声。小島慶子
一方、これは夫が送ってくれたパースの公園の写真。冬晴れです。
夏の黄昏と蝉の声。小島慶子
こちらは公園から見たパースのシティ。あー、家族に会いたい………涙

それにしても、ヒグラシはどこにいるのでしょう。

アブラゼミもミンミンゼミも、もしかしたらクマゼミだって鳴いているのに、ヒグラシにはなかなか出会えません。

今年の夏はまだ一度だけ、大通りから少し入った小道で彼方から響いてくるカナカナカナ・・を聞いたきりです。

この先に行けば聞けるかな、あの木にはいるだろうか、と歩くうちに、すっかり迷ってしまうのです。

ほんの30分のつもりで散歩に出たのに、気づけば1時間半も歩いていることも。

汗だくになって騒がしい大通りに戻り、都会の空中に浮かぶ小さな部屋に帰ります。

脱いだ服を洗濯機に放り込んで、温めのお風呂に浸かるのがささやかな幸せです。

夏の黄昏と蝉の声。小島慶子
ベランダで玉虫を拾いました。

お散歩用の風通しの良いドレスをぐるぐる来回しているうちに、気づけばもう8月です。

お盆を過ぎると、ツクツクボウシやコオロギが鳴き始めます。

暑さはまだまだこれからだけど、日暮れは少しずつ早くなって、秋の準備を始めています。

さてさて、今日はどこを歩こう。今夜も月がきれいかな。

夏の黄昏と蝉の声。小島慶子
緑濃い公園で。この写真を撮っている間に二の腕を三箇所蚊に刺されました…
小島慶子  
タレント、エッセイスト
仕事のある日本と、家族と暮らすオーストラリアのパースを毎月往復する出稼ぎ生活。 『るるらいらい~日豪往復出稼ぎ日記』(講談社)、『解縛(げばく)』(新潮社)、小説『わたしの神様』(幻冬舎)、小説『ホライズン』(文藝春秋)、新刊に『幸せな結婚』(新潮社)がある。